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川越街道大和田宿~竹間沢こぶしの里~いも街道~〃大井宿

(2021/10/23)
学芸大学→東急東横線地下鉄副都心線直通和光市行→和光市→東武東上線→朝霞台/北朝霞→武蔵野線→新座

新座駅6:18→鬼鹿毛の馬頭観音6:24→岾上の埋墓6:30→大和田宿・観音堂6:37→大和田氷川神社6:43→普光明寺6:49→鎌倉街道説明板6:54→倶利伽羅龍王7:19→中野富士7:24→竹間沢こぶしの里7:37→古井戸山の石仏7:41→三芳町歴史民俗資料館・旧池上家住宅7:46→藤森稲荷社7:47→二社稲荷社7:50→竹間神社7:51→泉蔵院7:53→主稲荷7:59→竹馬沢発祥地(本村観音堂)8:02→本村稲荷社8:12→木宮稲荷神社8:30→三芳町役場8:46→いも街道入口9:18→上富御嶽神社9:20→大石灯籠・三富開拓地割遺跡9:24→いぼとり地蔵・旧島田家住宅・天王さま9:32→島田家長屋門(いも街道出口)9:50→三芳PA10:01→北永井稲荷神社10:17→大井宿下木戸跡10:39→大井稲荷神社10:44→大井戸跡10:50→大井氏館跡10:52→徳性寺10:54→綾部塚11:05→五輪山11:12~20→大井宿本陣跡11:31→真名井の湯 大井店11:35~13:20→大井氷川神社13:22→オトウカ山13:32→あぐれっしゅふじみ野13:46→札幌ラーメン北の大地13:52~14:12→ふじみ野駅14:21

合計5時間58分(温泉、ラーメン除く)

ふじみ野→東武東上線→和光市→地下鉄副都心線直通元町・中華街行→渋谷→東急東横線→学芸大学

10月23日(土)は、川越街道続きで新座の大和田宿から謎の三芳町を通って大井宿まで歩いて来ました。この辺りは水の乏しい武蔵野台地の東端にあたり、先週までの湧水に恵まれた台地下との空気感の違いが実に面白いです。

今日は、武蔵野線の「新座駅」がスタート地点です。何もない北口に出て、まずは「川越街道」を目指します。川越街道は江戸時代より昔の長禄元年(1547)に、上杉持豊が古河公方に対抗するために古道をつなぎ合わせて江戸城と川越城をつなぐ道を造ったのが起源とされています。それからしばらく、北条氏に関東から追い出されるまで上杉氏は川越を拠点とするわけですが、その頃は江戸よりも川越の方が栄えていたというのがミソです。

川越街道旧道に出たらすぐのところにあるのが「鬼鹿毛の馬頭観音」です。この前「膝折宿」の由来で『敗走していた小栗判官が乗った愛馬・鬼鹿毛がついに力尽きて膝を折り息絶えたのがこの地』であるという伝説が残されていると書きましたが、ここはそのバリエーションで、名馬鬼鹿毛が倒れた場所は膝折ではなくここにあった松の大木の根元で、しかし再び立ち上がり、主人を無事送り届けた後に、この地に戻って息絶えたという話に変わっています。その話を元に馬を供養する馬頭観音がつくられたとのことです。
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その先を少し左に入ったところに「岾上(はけうえ)の埋墓」という墓石がなく塔婆だけが立っている墓地があります。ここは大和田宿の「普光明寺」の墓地で、当時この辺りでは「両墓制」という墓石を建てる場所(詣墓、寺の境内)と、遺体を埋葬する場所を分ける珍しい風習があり、その遺体を埋葬した方の墓地だそうです。
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再び川越街道旧道に戻り、真っ直ぐ進むと「大和田中町」の交差点に着きます。この辺りが大和田宿の中心だったらしいのですが、それらしき物は少し先の郵便局の隣にある高さ2mの聖観音が納められている「観音堂」ぐらいしかありません。この宿場は元々本陣・脇本陣が置かれないサブ的な宿場で、名主の高橋家が荷継ぎをする問屋場を務めていたそうです。ただ大和田宿があった大和田集落は鎌倉時代には国衙領で、少し奥まった場所にある普光明寺や大和田氷川神社中心に結構栄えていたようです。

その「大和田氷川神社」は、延暦21年(802)の創建と伝えられる国衙領大和田郷の鎮守社です。ただ横に立派な熊野神社があったのでたぶん先に熊野神社があって、氷川神社になったのは途中からなんでしょうが、明治時代には近隣の神社約30社も合祀して村社になっています。また本殿はたぶん改築されていますが、江戸時代に浅草当代の名工・島村源蔵の手によって造られたものだそうです。
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大和田氷川神社のすぐ近所にある「普光明寺」は、大同元年(806)に律宗の比丘が開山したと伝えられる真言宗智山派の寺で、本堂前にある地蔵堂には、源頼家が奉納したと伝える千体地蔵尊が納められています。また江戸時代の享保年間の建立といわれる山門は新座市指定文化財になっており、扁額の「福壽山」は江戸の書家、佐々木玄龍の筆によるものだそうです。さらに墓地には、この辺りを治めていた旗本芝山氏の墓があるそうなのですが、標識もなく早朝のため聞ける人もおらず、わかりませんでした。
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それから普光明寺の横の道に「鎌倉街道の案内板」があります。これは鎌倉街道上道と奥州街道をつなぐ鎌倉街道のバイパスである「羽根倉道」のもので、この道は東村山で上道から分かれ、柳瀬川沿いを辿り、宗岡で荒川を渡り、さらに北上して久喜市栗橋で奥州街道と合流していたということです。

朝の柳瀬川を渡り、英インターをという川越街道と浦和所沢バイパスの大規模交差点を越えて、柳瀬川の河岸段丘を登って行くと、沢沿いの細道の奥に「倶利伽羅(くりから)龍王」がある湧水があります。剣に龍が巻き付いた怪しい神様で由緒は不明ですが、この辺りにあった龍泉寺(廃寺)と関係あるのかもしれません。
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川越街道の河岸段丘の切通しをさらに登ると跡見学園女子大入口手前にあるのが「中野富士」という富士塚です。塚になっていると思っていたのですが、単に段丘の高さを利用しただけの物でした。山頂には浅間大神ではなく「三國第一山」の石碑があります。この辺りに多い浅海吉右衛門によって組織された丸吉講の富士塚とのことで、新座七富士の1つになっています。
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川越街道を離れて柳瀬川の河岸段丘を下ると三芳町に入り「竹間沢こぶしの里」に着きます。河岸段丘の林が保全された小さな湧水のある公園なのですが、キツネノカミソリほか様々な野草が咲き、夏にはホタルも見られるそうです。朝霞とか和光あたりに行くとこの手の湧水は珍しくもなんともないのですが、三芳町は大半が水の乏しい武蔵野台地上なので、町民の宝として手厚く保護されているようです。
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湧水の池から上に登ると「古井戸山の石仏」があります。さっきの鎌倉街道羽根沢道の案内板からは離れているのですが、一説によると羽沢道の道標であったとも言われています。

そして畑の中を少し行くと「三芳町歴史民俗資料館」があり、その裏に移築復元された「旧池上家住宅」があります。桁行11間・梁間6間、居室部は9間(9部屋)取りのかなり大きな農家で約140年前の建築とされています。
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旧池上家住宅の前を反対側に出ると「藤森稲荷」という小さなお稲荷さんがあります。これは京都の伏見稲荷を勧請した「竹間沢六稲荷(藤森稲荷・木下稲荷・二社稲荷・本村稲荷・主稲荷・北側稲荷)」の1つで、各稲荷講(初午祭)の2月11日に各講中の大人たちは社の前に大きな幟旗を立て、夕方になると宿とよばれる年番の家に集まり宴を行う風習があるそうです。また昭和30年頃まで、子供たちは「お籠り」と称して境内に小屋を作り一夜を過ごしていたということです。

表通りに出たところにある「二社稲荷社」も同じ竹間沢六稲荷の1つです

二社稲荷社の隣にあるのが「竹間神社」で、向かいにあるのが「泉蔵院」です。竹間神社は元は泉蔵院境内に創建されたということなので、この2つはセットだと思って良いです。

「竹間神社」は、竹間沢地区の草分けであった池上喜平が元禄7年に池上本門寺日照を招いて三十番神を勧請した神社で、『新編武蔵風土記稿』にも神仏習合の三十番神社として記されているのですが、明治の神仏分離令で祭神を八意思兼命に改め、名前も地名をとって竹間神社として竹間沢の村社に収まったようです。村社に関しては、木宮稲荷神社との間でどちらがどちらを合祀するかということで揉め事があったようで、結局、合祀はとりやめになって2社とも村社になれたということです。
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「泉蔵院」は現在は真言宗智山派の大和田の普光明寺の末寺です。しかし、かつて寺があったオクラヤマ(本村観音堂付近)からは多くの板石塔婆等が発見されているため、末寺として創建されたのではなく、中世にはすでに存在していたのではないかといわれています。竹間沢は三芳村では一番早く開けた場所で、鎌倉時代の元仁年間(1224~1225)に開拓されたという伝承が残っているので、寺の歴史もそれに準ずるとされています。

次の「主稲荷神社」も竹間沢六稲荷の1つなのですが、その中の最古の稲荷といわれています。

主稲荷神社から戻って、北に少し進むと「本村観音堂」と「竹馬沢発祥地」の碑があります。ここは本村と呼ばれているように竹間沢の昔の中心だった場所で、別名「御蔵山(オクラヤマ)」と呼ばれています。周辺には「馬場」「的場」「矢倉」などの地名も残り、「竹間沢城」ともいうべき土豪の居館があったのではないかと言う人もいます。実際、御蔵山付近で発見された「本村南遺跡」からは幅約3m、深さ約1.5mの空堀の跡が見つかり、発掘される板石塔婆も御蔵山と古井戸山に集中しているそうです。ただ板石塔婆はかつて泉蔵院があったことで説明がつきますし、本村南遺跡は平成19年度の調査では弥生時代の遺跡とされ、空堀の遺構も中から大量の土器や川原石が見つかったため、同時代のものと言われていて、城の存在は限りなく怪しいです。ただ本村観音堂裏の竹藪に崖のような急斜面に囲まれた丸く出っ張った城を造るのに良さそうな場所があります。
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次の「本村稲荷神社」も竹間沢六稲荷の1つ。

本村稲荷からしばらく大きな工場や倉庫が立ち並ぶ工業団地のような場所を行きます。三芳町は電車こそ通っていませんが意外と財政状況は良く、2015年度には埼玉県内で戸田市と三芳町だけが地方交付税不交付自治体だったそうです。その豊かな財政の元がこの工場や倉庫のような気がします。

そしてまた川越街道に戻るとあるのが「木宮稲荷神社」です。ここにはこの地の領主中山治左衛門が大阪在番だった寛文元年(1661)に、稲荷の神が藤久保に下るという霊夢を見て、紀州の良材を搬送して創建したという伝承が残っていますが、別当だった「東乗院(廃寺)」が本山修験で、創建した人物の先祖が大坂の鈴木を名乗っていたことから、元は熊野修験の神社で紀ノ宮から木宮となったのではないかという説もあります。明治5年に竹間神社と揉めた後、無事村社に列格し、同40年に旧東乗院にあった八坂社・浅間社を合祀しています。この浅間神社は元は藤久保の富士塚に祀られていたもので地名も公園なって残っています。ただ塚はなく石祠しかありません。
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木宮稲荷神社の先には「三芳町自然の森」があります。この森は武蔵のの雑木林が保全し、中を散策出来るようにしたものです。武蔵野の雑木林は江戸時代に入植した人々によって農用林として育成されたもので、それ以前の武蔵野は茫々とした原野の広がる広大な野原だったそうです。

三芳町自然の森の先にあるのが「三芳町役場」です。三芳町の町名は『伊勢物語』の「三芳野の里」からとられており、明治22年(1889)に、入間郡上富村、藤久保村、竹間沢村、北永井村の4村が合併する際に三芳野村とする予定だったらしいのですが、同名の村が埼玉県内に3つもあり、県から却下されたため、野をとって三芳町としたそうです。現在は、純然たる都会でも田舎でもない「トカイナカ」を標榜して、地域おこしに取り組んでいるとのことです。それはいいのですが、役場の裏の産廃処理場のゴミの山と、横のガスタンクと、その裏のラブホテルをなんとかしないと、せっかく来た移住希望者が考え直してしまう思うんですけどねー。

広大な畑の中をさらに西へ進み関越自動車道を越えると「いも街道」に着きます。ここは川越のというか三芳町の特産品である「富の川越いも」(サツマイモ)の生産を担う農家が軒を連ねる街道で、9月~翌年1月のシーズンになるとノボリ旗がいっせいにはためき、全国?からやって来た芋姉ちゃんたちの車で道が渋滞するという知る人ぞ知る穴場の観光スポットです。サツマイモ以外にも芋でつくったアイスや羊羹、それに芋焼酎などもあり、巨大なケヤキ並木や蔵もインスタ映えする場所として人気らしいです。
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いも街道に入ってすぐにあるのが「上富御嶽神社」です。ここは青梅市の御嶽山にある武蔵御嶽神社の分社で、天保年間より代参講が行われていたそうです。

農家の庭先でやっている芋の直売所が続きますが、全部写真撮ってもしょうがないので、目立つ物をだけにします。この辺りは東京の砂川の青梅街道と同じように街道に面して家があり、裏に細長い畑をある整然とした区割りになっており、その区割りが「三富開拓地割遺跡」として遺跡に認定されています。
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その先に「いぼとり地蔵」と「旧島田家住宅」という古民家があります。島田家もこの三富地区の草分けで、水が乏しくまともな作物が採れなかった村がサツマイモ生産で豊かになったことを証明するような大型の家屋とのことです。現在は人々の交流の場として活用され、三富新田の歴史と文化の学習の場として寺子屋も開設しているとのこと。その向かいの「天王さま」は由緒不明の小祠なのですが、元は八雲神社とか八坂神社だったんじゃないかと思います。

もう少し進むと「島田家長屋門」が左手に見えてきます。その交差点でいも街道は終わりですが、左に進むと数分でこの前行った「多福寺」や「多聞院」のある地区に着きます。でも今日は右折して「川越街道大井宿」を目指します。

途中上を通った関越道の「三芳PA」はコロナ明けの晴天ということで、渋滞の列が出来てました。日本人はとことん並ぶの好きですね。

三芳PAを越えた先に「北永井稲荷神社」があります。この永井辺りは水の便が特に悪く、新田開発が一番遅れた地域らしいです。

そしてまた川越街道に戻って来ました。この辺りは道の真ん中にけやき並木があります。

「大井宿下木戸跡」はかつての三芳村と大井村の堺で、宿場の出入口に警備用の木戸が設けられていたそうです。
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少し北へ進むと今度は「大井稲荷神社」があります。川越街道が整備された江戸時代前期には既に1,600坪の神領を有していたそうなので、大井宿の成り立ちとか大井氏と関係のある神社だったのかもしれません。明治40年に大井氷川神社に合祀されるも、住民の力で昭和41年、元の場所に戻されたそうです。

大井稲荷神社から砂川堀沿いに降りると、「大井戸跡」の案内板と復元された大井戸があります。この井戸は堀兼の井や七曲の井と同様に竪掘りの技術が確立していなかった頃の、いわゆる「まいまいず井戸」で方式で掘られた井戸で、元禄年間には廃井戸になり埋め立てられたそうですが、昭和50年に発掘され、復元されたそうです。当然大井宿の名前の語源にもなっています。
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大井戸跡の北西側の埼玉トヨペットが「大井氏館跡」です。遺構が残っていなのでハッキリしないのですが、大井氏の館は次に行く「徳性寺」から「東原小学校」のあたりにあったと言われています。大井氏は武蔵七党のひとつ村山党の祖である村山頼任の孫の家綱が武蔵国入間郡大井に在し大井氏を名乗ったのが始まりとされる一族で、この大井は大井宿であろうと言われています。大井は湧水が出たため、古くから集落が出来た場所で、旧石器・縄文・縄文前期・平安・鎌倉・南北朝・室町・戦国・江戸時代と様々な時代の遺跡が発見されており、中世期の建物跡・柱跡・土坑・井戸・溝も発見されているので誰かしらの居館があったのは間違いないと思われます。

埼玉トヨペットから川越街道を渡ると「徳性寺」という天台宗の寺があります。ここも大井氏の館があった場所に含まれるのですが、伝承によれば、今から450年程前の室町時代に秀山律師により開かれたということです。入口の山門右脇には高さ117cm、幅31cm、厚さ3cmの「弘安4年(1281)の阿弥陀一尊板碑」があり、その横にある他の大小の板碑もその周辺から出土したと伝えられています。本堂には江戸時代初期に大井を領地とした旗本の米津彦七郎(過去帳には彦七)の位牌が残されています。また墓地には大井の草分けである大井四人衆の1人で江戸時代に大井宿本陣を任されていた元和9年(1623)銘の五輪塔がある「新井家墓地」があるとのことだったのですが、新井家の墓石が多すぎてわかりませんでした。

徳性寺から出て裏の畑の中を進むと「綾部塚」という戦国時代に当地開拓に尽力した大井四人衆(井伊賀、新井織部、塩野大膳、小林出羽の四浪)の一人新井織部を埋葬しという伝承を持つ塚があります。塚の上には「日神皇」と刻んだ石碑とかつであった巨大な黒松の木の代わりの松が植えられています。『大井町史』では、発掘調査をしていないため詳細は不明だが、河越夜戦などの戦乱で討ち死にした者たちを埋めたものという説もあると紹介しているそうです。
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綾部塚から少し戻るように北東に進むと、今度は「五輪山」という、塚というよりも林のようなものがあります。ここは江戸時代に大井宿の本陣を務た新井帯刀の子孫の新井家の墓所で、寛永11年(1634)の五輪塔があることからその名がつけられたそうなのですが、新井氏の館跡という説もあります。しかし昭和55・56年に発掘された時は遺構は検出されなかったそうです。また新井家の墓所以前に戦国時代から墓所だった可能性もあるそうです。新井氏の屋敷は一般には本陣跡付近にあったとされていますが、場所の特定はされていないようです。

そしてようやく「大井宿本陣跡」です。ここは先ほど書いたように大井四人衆の末裔である新井家が務めており、川越まで近いためほとんど宿泊することはなく、人馬の継ぎたてだけが行われていたそうです。
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大井本陣跡から川越街道を渡り、1本裏通りに入ると「真名井の湯 大井店」があります。今日はここで汗を流して行きます。すぐ近所に大井戸があるのでてっきりそこから名前をとった温泉だと思っていたら、天橋立にある真名井神社からとったそうで全然関係ないようです。料金は平日800円、土日900円。泉質は、pH8.8の薄い褐色の塩泉(単純泉)ということなのでまた薄い黒湯かなと思っていたら、若干鉄分の入った児玉郡の白寿の湯やかんなの湯に近い泉質でした。
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真名井の湯を出たら、大井宿の鎮守である「大井氷川神社」に向かいます。。ここも創建は不明なのですが、中世より「根上明神」が祀られていたのではないかと言われ、その後弘化5年(1848)に再建された際に氷川神が相殿に祀られ「氷川根上大明神」となったようです。根上はたぶんこの前行った朝霞市の「子ノ神氷川神社」の子ノ神と同じものだと推測され、たぶん大井の井戸を祀ったものだと思うのですが、井戸の位置から微妙に離れているので違うかもしれません。

大井氷川神社からさらに北に進むと「オトウカ山」という元富士塚があります。ここの山頂にあった「藤塚神社」の石碑は現在はふじみ野駅東口の新河岸川近くの「勝瀬榛名神社」に移されており、現在は公園には塚だけが残されています。ちなみに古墳ではないかという説もあり、発掘調査してみたものの、それらしき遺物は発見されなかったそうです。ちなみにオトウカ山の名前は「お稲荷」の音読みで、昔は狐が住んでいたことからきたそうです。
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オトウカ山からふじみ野駅はすぐなのですが、多少時間も早いのでJAいるま野がやっている「あぐれっしゅふじみ野」という農産物直売所に行ってみました。そしたらさっき重くて買えなかったサツマイモが売っていたので、紅はるかというのを少々買ってみました。

その近所に新しくてきれいなわりに人のいないショッピングモールがあったので、そこも覗いて、中にあった「札幌ラーメン北の大地」という店で「トンカツ味噌ラーメン」なる物を食べてみました。トンカツの乗ったラーメンというのは、千葉の木更津の駅西口にあるSL中華つけ麺とかいうラーメン屋で2度食べて以来、久しく食べていなかったのですが、ここのは白味噌に豚骨を混ぜたようなラーメンにトンカツを乗せたラーメンで、千葉の普通の醤油ラーメンにトンカツを乗せたのより、洗練されてる感じで美味しかったです。
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大和田をあるく - 新座市ホームページ
https://www.city.niiza.lg.jp/site/bunkazai/oowadajukuwoaruku.html


おさんぽNavi(三芳町ガイドマップ)
https://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/town/osampo.html


ふじみ野map,ふじみ野市,富士見市, 三芳町の散歩・歴史探訪
http://www.fujimino-net.com/map/


天然温泉 真名井の湯(まないのゆ)大井店:露天風呂|公式HP
http://www.manainoyu.com/ooi/


<地図>
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志木市~富士見市周辺の城跡など

(2021/10/16)
学芸大学→学芸大学→東急東横線/地下鉄副都心線直通和光市行→和光市→東武東上線→志木

みずほ台駅6:14→打越館跡6:24→来迎寺6:33→下鶴間氷川神社6:37→殿山遺跡6:49→上鶴間諏訪神社6:56→上鶴間氷川神社6:57→瑠璃光寺7:06→多門氏館跡7:12→下南畑氷川神社・山形樋管7:30→難波田城跡7:43→水宮神社・大應寺8:16→水子貝塚8:21→上水子氷川神社8:26→城の下観音堂9:06→いろは樋の大桝9:26→田子山富士塚9:35→引又観音堂・引又河岸宛9:44→旧村山快哉堂9:49→宗岡天神社9:54→おふろの王様 志木店10:04~11:50→羽根倉浅間神社12:05→羽根倉古戦場跡12:25→関根兵庫館跡12:33→宗岡蓮田バス停12:37

合計4時間37分

宗岡蓮田→国際興業バス→志木駅→味噌ラーメン専門店 日進堂→東武東上線→和光市→地下鉄副都心線→渋谷→東急東横線→学芸大学

10月16日(土)は、相変わらず足のマメが潰れたところが痛いので、また距離を短めにして富士見市と志木市あたりの城跡を回って来ました。スタートは東武東上線のみずほ台駅です。

駅北口を出たら真っ直ぐ進み、みずほ台中央公園のところで左折すると「みずほ台小学校」があります。ここは「打越館跡」という旧石器時代や縄文時代の富士見市を代表する遺跡群が発見されていいるそうなんですが、遺跡からは戦国時代頃の溝跡や地下式土坑も発見され、在地土豪の「打越館」という館があったとされています。出土した遺物などから15世紀から16世紀頃のものと推察されるそうです。ただ学校のグランドに整地されてしまっているので、遺構は残っていません。
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続いて江川という小河川の河岸段丘下って登り返すと、天台宗寺院の「来迎寺」という寺と、その少し先に「下鶴間氷川神社」があります。この2つにも「御庵(ごあん)」と呼ばれる在地土豪の館跡の伝承が残っていて、鶴間地区の開発の中的に担った横田家の先祖の館だったのではないかと言われています。ただ詳しいことはわかっていないそうです。また御庵には縄文時代早・前・中期の集落跡、平安時代の集落跡「御庵遺跡」という遺跡も発見されています。
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「下鶴間氷川神社」は武蔵国一の宮氷川神社を勧請して創建された神社で、上鶴間氷川神社と共に明治期には地域の神社を合祀して村社に列格されたそうです。

もう一度名前のわからない小さな川の谷に下ると、対岸の崖上に「富士見台中学校」が見えて来ます。ここで発見されたのが「殿山遺跡」です。縄文前期の貝塚をともなう集落跡と奈良~平安時代の横穴墓をともなう集落跡の上に戦国時代の城跡などが重なっていて、城跡は「鶴馬(間)城跡」「宮崎館跡」とも言われています。南北にクランク状の約2mの堀が発見されたそうです。ここには「多門成正」が鶴馬村に館を構えた天正19年(1591)頃に、下鶴馬の地を知行した「宮崎備前守」が館を設けたという伝承が残っています。

ここも遺構は残っていないのですが、この辺りの台地の突端にはことごとく古代の遺跡と武士の館跡が発見されているのは凄いですね。

富士見台中学校からもう少し北に進むと「上鶴間氷川神社」と「上鶴間諏訪神社」が並んであります。この辺りの他の氷川神社の成り立ちと一緒だとすると、諏訪神社のあったところにたぶん後から大宮の氷川神社を勧請したものだと思います。

それで「上鶴間氷川神社」は先ほどの下鶴間氷川神社と同じような上鶴間村の村社なのですが、より古くからあったのではないかと思われる「上鶴間諏訪神社」には太田道灌が江戸城築城後、その出城の候補地としてによりこの辺りを検分したた際に、疫病に苦しむものが多数あり、その有様を見た道灌の配下が、京都から三頭の獅子頭と山の神面を譲り受け、字和田戸(現渡戸)の名主繁右衛門の屋敷へ里人を集めて獅子舞を教えて、社頭で悪疫退散の舞を奉納させたところ、病に苦しむ者達は日ならずして快癒したという伝承が残っています。ここも、城があったわけじゃないのですが、すぐ下に湧水がある台地の突端なので、まあそういうことがあっても不思議ではないと思います。あと諏訪神社は、神仏分離まで瑠璃光寺が別当を務めていたものの、明治以降は江戸時代に名主であった加治家が社家を務めているとのことなのですが、この加治家は飯能の丹党の加治氏と関係がありそうな気がします。
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「瑠璃光寺」は安元2年(1176)寂の實圓という僧侶が創建した天台宗寺院なので、場所的に次に行く「多門氏館跡」と関係ありそうなのですが、境内に古碑一基ありというだけで詳しい記録は残っていないようです。天台宗ということで、元は本山修験の寺院だったという可能性もありますね。

そして「多門氏館跡(鶴馬館)」です。ここは現在は住宅地で何も残っていないのですが、明治に書かれた地元の記録『鶴間原稿』には「多門左次兵衛屋敷」として「要地、浮島に似たり」とあるらしいので、沼城のようなものだったと推察されます。多門(おかど)氏は徳川の旗本で、徳川家康の関東入府に伴い、天正十九 年(1591)にこの地に領地をたまわり、多門平次郎(平左衛門)成正が館を構えたとのことなのですが、広い範囲に堀や土塁が発見されており、最初は小田原北条氏の家臣上田氏が城を築き、その一部を多門氏が利用したとも考えられているそうです。
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多門氏館跡から国道254号の橋で「新河岸川」を渡ります。新河岸川は入間川がまだ荒川と交わらずに隅田川を経由して東京湾に注いでいた時の流路をベースに水運のために改良された運河のような川で、上流の川越と下流の浅草の高低差がほとんどないため、下流から上流へも楽々進むことが出来たそうです。
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新河岸川を渡ると「下南畑氷川神社」があります。ここも大宮氷川神社を勧請して創建された神社なのですが、「初期の難波田氏の館」がこのあたりにあったのではないか、もしくは難波田氏の親族の居館があったのではないかとも言われています。ただあまりに新河岸川が近いので、住むには危険な気もします。

実際問題として、下南畑氷川神社の前には下南畑地区を洪水から守るために排水を新河岸川へ落として逆流を防ぐための「山形樋管」というものの跡が残っています。

下南畑氷川神社から次は難波田城跡「難波田(なんばた)城跡」に向かいます。この辺りは川の氾濫原の低地で、広大な水田地帯になっているのですが、水害が多かったせいか古くからの農家はみな50cm~1mぐらい土盛りをして島のようになった場所に建てられており、沼城と言われる難波田城跡も同じような構造の上に造られています。
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難波田城公園には朝早すぎて入れなかったのですが、外から堀や土盛りの形状を確認することはできました。ここは東側の水堀や土塁を復元した城跡ゾーンの他、西側には古民家を移築して農村風景を復元した古民家ゾーンや富士見市の歴史を解説する難波田城資料館もあって、城跡以外も楽しめるようになっています。また池は蓮や菖蒲の名所でもあるそうです。

難波田城は、武蔵七党村山党の金子家範の子小太郎高範を祖とする難波田氏の居城で、難波田氏は鎌倉時代に金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われています。この城跡は、戦国時代に扇谷上杉氏の重臣として活躍した難波田弾正の本拠地だったそうです。難波田氏没落後は、この辺りは松山城の上田朝直の一族の上田周防守左近の知行地となり、小田原北条氏の『小田原衆所領役帳』にも小机衆の上田左近が難波田の領主であったことが記されています。ただ一時期、太田道灌の曾孫で難波田氏の娘婿の「太田資正」が難波田城を支配していたという記録も残っていて、戦国期には城の所有者は二転三転していたようです。難波田氏はその後、秀吉の小田原征伐の一環で東松山の松山城が落城した時に難波田城も廃城となります。廃城後の江戸時代は十玉院(※明治の廃仏毀釈で廃寺)という修験道の寺院になっていましたが、そのお陰で城の形状が良く残っていたため、昭和36年、埼玉県旧跡に指定され、公園として整備されました。

難波田城公園から再び新河岸川を渡って戻ると水子地区に入ります。この水子地区ですが、名前から類推するとドロドロの低地に思えるのですが、予想に反して台地の上の高台でした。

新河岸川の河岸段丘を登って最初にあるのが「水宮神社」という神仏習合の神社です。正式名称を摩訶山般若院水宮神社というそうなのですが、ここは元々本山修験の修験寺摩訶山般若院として創建されたお寺で、明治の神仏分離令によって天照大神ほか五柱を奉斎する水宮神殿になったものの、平成5年に再び元の形に戻したそうです。小さな神社かと思ったら結構立派な神社で、狛犬の代わりに狛蛙がいることがチャームポイントらしいです。また水子らしく水子供養も有名だそうです。
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水宮神社の隣りにあるのが「大應寺」です。こちらも立派な真言宗智山派の寺院です。境内が水宮神社と繋がっている感じなので、神仏分離令で真言宗になって、以降そのままなのでしょうか?

そして「水子貝塚」です。「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として整備されているのですが、またも時間が早すぎて開いていませんでした。しょうがないのでまた外から眺めながら進んだのですが、ここは縄文時代前期(約5500~6500年前)を代表する貝塚として、昭和44年、国の史跡に指定されています。公園の中には、復刻された縦穴式住居と富士見市内の考古資料を中心に展示している「水子貝塚資料館」があります。
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水子貝塚公園からもう少し先に行った場所にあるのが「上水子氷川神社」です。ここには「水子御陣屋」という江戸時代の寛政5年(1793)に尾張藩の鷹場陣屋として造られた陣屋があったそうです。鷹狩りというと丘陵地帯のイメージが強いのですが、この辺りは湿地帯で水鳥が豊富だったため、それを獲物としていたようです。陣屋をやっていた増田家がまだ近所あるそうなのですが、ここは標識が出ていなくて確認できませんでした。上水子氷川神社には想定外の富士塚もありました。
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水子貝塚公園は上水子氷川神社の帰りにもう一度見たら、まだ開園15分前なのに開いていて中に入ることが出来ました。でも広場しかないので、入っても見るべきものはあまりありません。

水子貝塚公園から東に進むと「城の下観音堂」という江戸初期の千手観音菩薩立像を奉った観音堂があります。この辺りに難波田城と志木柏城、所沢の滝の城の三城間の連絡用の「水子城」があったと言われています。根拠は唯一「城の下」という地名だけなのですが、水子貝塚からこの辺りまでは高台になっているので、城があったとしても不思議ではないかもしれません。あとここからも「観音前遺跡」という弥生時代後期~古墳時代前期の環壕集落跡、古墳時代後期の集落跡、平安時代の集落跡が発見されているらしいです。
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城の下観音堂から一直線に柳瀬川と新河岸川の合流点を目指します。この合流点付近に「引又河岸」という河岸場(船着場)があります。内陸との交通の便に恵まれていたため、最盛期には所沢、小平、武蔵村山等を越え、遠く青梅や八王子へ運ぶ荷物も取り扱っていたそうです。柳瀬川がどの程度水運に使えたかは良くわかりませんが、柳瀬川~空堀川沿いを進めば、水の心配なしに箱根ヶ崎あたりまでは行くことが出来ますね。
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柳瀬川を渡って引又河岸エリアに入ると、まず最初にあるのが「いろは樋の大桝」という野火止用水の水を対岸の水に困っていた宗岡村に引くために考案された筧(かけひ)です。大桝は用水の水を掛け樋に送り出すために、一度水をためておくための物で、江戸時代の木製のレプリカと明治31年に造られた金属製の物が展示してあります。「いろは」と呼ばれるわけは木製の懸け樋は48個の樋をつないたものであったためということで、長さが100間以上もあるということから百間樋とも呼ばれていたそうです。
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いろは樋の大桝から道を渡ると「市場跡」の案内板があり、その周辺に古い商店や屋敷の門なとが点在しています。この辺りは物流拠点ということで、たいへん栄えていた場所だそうで、年に何度も市が開かれ、商店も軒を連ねていたそうです。しかし鉄道の普及で水運が使われなくなると衰退を余儀なくされたということです。ちょっと観光地っぽい場所なのですが、史跡としては川越程は重要でないし、駅からも遠いので、地元の人の憩いの場以上になるのは難しいかな~という気がします。ただ雰囲気は良いので穴場!

レトロ商店街から住宅街を突っ切って進むと、「敷島神社」があり、ここの境内には「田子山富士塚」があります。これは古墳の上にさらに土を盛って造られたと言われる富士塚で、高さも約8.7mほどあり、埼玉に現存する富士塚の中では最大級のものということなのですが、残念ながら登山禁止になっていました。ただ石造物の数と種類、細工は他の富士塚と比較しても並はずれていて、当時の引又河岸の豊かさが忍ばれるそうです。
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富士塚の裏から柳瀬川と新河岸川の合流点が見渡せる場所に出ると「引又観音堂」があります。これは聖観音と両脇に馬頭観音だけの素朴な物なのですが、新河岸川で水難に遭った人の霊を供養するために祀られたもだそうです。その隣に「引又河岸跡」(船着場)のポールが立てられています。引又河岸が最も繁栄したのは幕末から明治初期にかけてで、その後、大正時代に東上鉄道(現:東武東上線)が開通して、舟運の衰退ととともに衰退したということです。
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あと柳瀬川と新河岸川の合流する突端に「いろは親水公園」という見晴らしの良い公園があり、その中に「旧村山快哉堂」という昔の薬屋の店舗が移築復元されています。これもたぶん市場跡の商店街にあったものなんじゃないかと思います。
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もう1つ橋を渡って新河岸川の対岸に行くと「宗岡天神社」という江戸の湯島天神を分祀したと伝えられる神社があります。ここには別に代々名主を務めていた木下氏の先祖の山口大膳(武蔵七党村山党の山口氏の一族)が山口(現所沢市)から来住した際に出身地の氏神を分祀したという言い伝えも残っています。山口大膳には「山口大膳と荒井仁右衛門の決闘」という民話も残っているそうなので、居館跡もありそうなのですが、今回調べた範囲では見つかりませんでした。ただ柳瀬川沿いの交易路が江戸時代以前から使われていたとするならば、村山党の山口氏の子孫がこの辺りに住んでいてもなんら不思議はありません。
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宗岡天神社から北に進むと志木高校入口バス停があり、その先から右手の路地に入って少し行った左側に「おふろの王様 志木店」があります。建物が平屋でこじんまりとしているので見落し注意!今日はここで汗を流して行きます。料金は平日800円、土日900円。泉質はナトリウム-塩化物・炭酸水素塩温泉(弱アルカリ性低張性温泉)で、場所がら塩泉かと思っていたのですが、色の薄い黒湯でした。この日はさすがにみんな緊急事態宣言明けになれてきたとみえて、午前中なのに結構混んでいました。
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お風呂の王様を出たら志木駅の方に戻らずに、荒川にかかる羽根倉橋を目指します。まず橋のたもとに「羽根倉浅間神社」という溶岩をコンクリートで固めた富士塚のある浅間神社があります。ここは源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で狩りをした際、それに付き従った農民には賦役の代償として田の年貢が免除されたため、それを記念して祀られた神社とのことなのですが、何度か移転しているので、元々この地にあったものではないようです。富士塚も最初、明治5年から同13年まで9年間かけて築かれたものを、荒川の改修によって移転させられた後、昭和48年にさらにもう一度移転させられているので、まだ残っているというのは奇跡的なことなんじゃないかと思います。
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国道463号の下をくぐり、荒川の土手に上がって羽根倉橋をさいたま市との境まで進んで荒川大河ぶりを堪能したら、元来たの方に戻って強引に富士見市運動公園に下りると、「羽根倉古戦場跡」の案内板があります。ここは南北朝時代、難波田九郎四郎と高麗彦四郎経澄の戦いがあった場所で、この当時、将軍の足利尊氏と弟直義との間で諍いが続き、関東の武士団もそれぞれ両派に分かれて争っていたのですが、尊氏方に属していた高麗経澄が宇都宮氏討伐に下野に向かうのをやめて進路を反転し、直義党の根拠地である鎌倉を攻撃するために鎌倉街道を一路南下しようとしたのを、直義側の難波田九郎三郎が迎え撃ったのがこの戦いだそうです。結果は難波田勢の敗北で多くの部下が討死したとのことです。ちなみに高麗経澄ですが、秩父平氏の一族が高麗郷に移住して高麗氏を名乗った子孫と言われており、渡来人の高麗氏とは関係はないようです。たた秩父平氏が渡来人の高麗一族と姻戚関係を結んで高麗氏を名乗った可能性はあるということです。
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最後に、羽根倉古戦場跡の南東側の荒川の河川敷のグランドにも、「関根兵庫館跡」という武士の居館があったと言われています。現在はNTTグランドで、当然ながら何も残っていませんが、かつては河川敷に土塁や構え堀の一部が残されていたそうです。館跡の東方の荒川の河岸には「兵庫野」という字があって、関根兵庫一族が開拓したものといわれ、この関根氏は岩附の太田氏の家臣との説があり、上宗岡に子孫の関根家も残っているようです。

河川敷から堤防に上がって、さっき確認しておいた「宗岡蓮田」バス停から志木駅へバスで戻ります。このバスは1時間に4本程度あるので、時刻を確認しておかなくとも乗れます。志木駅は慶応大学附属志木高校があるせいか、東武東上線らしからぬ山の手っぽい雰囲気の駅で、東上線の下町っぽい雰囲気が苦手な女性が住みには良いところかもしれません。

でも学生が多いのでラーメン屋も多く、その中で「味噌ラーメン専門店 日進堂」という店に入ってみました。普通の味噌ラーメンを注文してみたのですが、激戦区らしく色々乗った結構凝った感じの味噌ラーメンで美味しかったです。ただバターが入っているのかスープがかなり甘めだったので、メニューにピリ辛とか激辛があったらなお良かった気がしました。まあ唐辛子を振りかければいいだけの話なんですが。
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富士見お散歩マップができました
https://www.city.fujimi.saitama.jp/shisei/19chikatu/osanpo-map.html


志木市観光協会 | 志木市の魅力を余すことなくご紹介します。
https://kanko-shiki.com/


志木店 | おふろの王様
https://www.ousama2603.com/shop/shiki/


<地図>

朝霞台~新座~東久留米

(2021/10/09)
学芸大学→東急東横線地下鉄副都心線直通和光市行→和光市→東武東上線→朝霞台

朝霞台駅6:42→黒目川7:06→泉蔵寺7:16→一乗院閻魔堂7:28→牛山家本陣跡(〒膝折局)7:35→旧脇本陣村田屋7:36→膝折不動尊7:41→子ノ神氷川神社7:56→新座市営墓地入口8:02→市場坂遺跡8:11→・キツネノカミソリの里8:16→蓮光寺8:33→片山氷川神社8:44→法臺寺(片山富士、片山広忠館跡その1)9:00→新座観音(神護院)9:12→新座片山農産物直売所(片山広忠館跡その2)9:25→殿山運動場(嵯峨山遺跡)9:32→堀ノ内いこいの森→殿山→西堀氷川神社10:50→スパジアムジャポン9:57~12:00→浄牧院12:23→武蔵野稲荷神社12:41→たんたんめんKAI12:43~13:03→東久留米駅13:04

合計3時間18分(温泉とラーメン除く)

東久留米→西武池袋線→練馬→地下鉄副都心線東急東横線直通元町・中華街行→学芸大学

10月9日(土)は、足のマメが潰れた場所がグチュグチュになってあまり歩けなくなってしまったので、朝霞台/東朝霞駅から黒目川沿いを東久留米までショートコースを作って歩いて来ました。この辺たいした物はないのですが、新座市唯一の城と言われる「片山城跡」があります。

東武東上線の朝霞台駅で電車を降りたら、南に下り、先日も行った「黒目川の桜並木」に出ます。駅から適当に進めば着くと思っていたら、道に迷いかけてしまった。早朝の黒目川はラーニングやウォーキングの人がたくさんいて、とても住民に愛されているといった感じです。ただ川底から堤防の上までの高さがたいしてなく、大雨が降ったら怖そうなので、あまり近くには住みたくないかも。
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黒目川沿いをしばらく進むと「泉蔵寺」という渡来人が泉水に住み着いた際に立てられたとの憶測がある真言宗宗智山派の寺があります。和光市や新座市の新羅から来た渡来人が開拓したという話や、朝霞市の一乗院をつくったのは高麗郷から来た落人だったという話など、この近辺は本当に渡来人の話が多くあります。泉蔵寺は寺院としては正長2年(1429)と永正元年(1504)年の板碑が残されていることから、室町時代初期の創建で、古くは泉水の山の上にあったと伝えられており、泉水の泉と本尊である地蔵の蔵の字をとって泉蔵寺としたといわれています。
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泉蔵寺からさらに南へ進むと「一乗院閻魔堂」があります。ここは一乗院とついていますが、現在の管理者が一乗院であるというだけで、元々は「持明院」という明治の廃仏毀釈で廃寺になった寺院のものだったようです。閻魔堂というのも正確ではなく、元は阿弥陀堂で持明院が零落して本尊もどれだかわからなくなった結果、そこにあった仏像を合祀したものらしいです。一乗院閻魔堂は小さな墓地の中にあるのですが、その入口に集められた古い石仏や石碑も持明院にあったものだと言われています。
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一乗院閻魔堂の先の膝折一丁目交差点を左折すると旧川越街道「膝折宿」に入ります。少し行った右側にある「膝折郵便局」のあたりが「膝折宿本陣跡」で牛山家の屋敷があったそうです。ここには標識も何もありません。しかしその少し先に「膝折宿脇本陣跡」だった「村田屋」という古民家が保存されていて、その前に説明書き建てられています。この建物の屋号は村田屋となっていますが、「高麗家」の屋敷で、戦乱で高麗氏の城が陥落した際、膝折へ落ち延びて定住し、一乗院をつくった5名の家臣の子孫なのではないかと思います。
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膝折の地名の由来は『敗走していた小栗判官が乗った愛馬・鬼鹿毛がついに力尽きて膝を折り息絶えたのがこの地』 であるという伝説が有名ですが、中山道の起点である日本橋から歩き続けると、この辺りで馬の足が折れてしまうことからついたという説もあり、こちらの方がしっくりくると思います。膝折宿は黒目川の河岸段丘の急斜面を下った場所にあり、武蔵野台地の水の乏しい中、湧水に恵まれたことから古くから市が立ち商人が集まる活気のある町だったそうです。昔は荷車を押して駄賃を稼ぐ人夫もいたらしく「稼ぎ坂」という地名も残っています。ちなみに朝霞市は最初、膝折村だったのですが、縁起が悪いということで町に変わる時に同地にあった東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁だった朝香宮鳩彦王にちなんで、朝霞町と名乗るようになったそうです。

坂道を登り切っり手前で脇道に入った所にある「膝折不動尊」は由緒不明なのですが、川越街道の旅の安全を願って古くから祀られてきたお不動様なのだと思います。
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膝折不動尊の先で現在の川越街道である国道254号を渡ろうと思っていたら、横断歩道が無かったので、少し戻ったこうさてんでで渡り、さらに南に進みます。ここから先は河岸段丘上に「陸上自衛隊朝霞訓練場」や「新座市市営墓地」があるので、川沿いに緑が続くようになります。

その入口に「子ノ神氷川神社」があります。元々山の神として祀られていた子ノ神の神社に氷川神社を勧請した神社とのことだったのですが、とても立派な湧水の池があり、その下に滝行が出来るような滝も造られていたので、元は修験道の修行場の守護神だったような気がします。ここの別当も廃寺になった「持明院」だったそうで、明治に入って近隣の神社を合併して村社になっています。持明院はやはりそっち系の寺だったのでしょうか?
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子ノ神氷川神社の少し先に新座市営墓地の裏口があるので、そこから墓地の脇を通る遊歩道のような道に入ります。この裏口はゲートが閉まり進入禁止の文字が書かれていますが、歩行者はゲートの横の隙間から入っていいことになっているらしいです。この墓地を造成するにあたり、3ヶ所から旧石器時代、縄文時代の遺構・遺物が発掘されており、「市場坂遺跡」の説明書きが送電線鉄塔の下にあります。また墓地の一番南西側斜面は「キツネノカミソリの里」というキツネノカミソリの群生地です。キツネノカミソリは埼玉の場合、もう少し田舎の方に行くとあちらこちらに咲いているのであまり珍しくはないのですが、ここは東京から近いので結構見に来る人がいるのかもしれません。
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新座市営墓地を出てまた黒目川を渡り、反対側の河岸段丘上に登ると、「蓮光寺」という真言宗智山派の寺があります。ここ単体ではそれほど重要な寺では無いのですが、片山城の守護神だったという「片山氷川神社」の元別当寺であったようなので寄ってみました。昔は神社の近くにあったようなのですが、現在地に移転したそうです。南北朝時代の康永元年(1342)から康正元年(1455)にかけて建てられた板碑が境内に残されています。
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そして蓮光寺から西へ進むと、関越高速の手前にあるのが「片山氷川神社」です。黒目川流域は、古くから鎌倉幕府の支配する土地(国衙領)で「片山郷」といわれており、その中でもこの辺りは片山郷の中心で、関越高速を挟んだ西側の堀ノ内1丁目付近には鎌倉御家人で片山郷の開発領主の片山氏が居館があったと言われています。片山氷川神社もおそらくその関連で祀られたものではないかと考えられています。境内には樹齢700年と言われる御神木の老杉根が今も残されています。また神社の由緒書きには「馬場氷川神社」とあるので、この辺りに馬場か、もっと古くは放牧場であった牧が存在した可能性もありますね。
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片山氷川神社から関越高速をくぐって反対側に出て黒目川を渡ると、「法臺寺」という元時宗で現在浄土宗の寺があって、そこが「片山氏館跡(片山広忠館跡その1)」です。なぜその1と言うかというと、片山神社の説明書きにある堀ノ内1丁目も候補地としてあるからです。法臺寺は『新編武蔵風土記稿』にも「古城跡。境内大門並木の北にあり、四間四方ほどの地なり何人の館跡なるを詳にせず、ただ古址といひ傳ふのみ、今は墓所となれり」という一文が載せられています。
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片山氏は武蔵七党・児玉党の児玉経行の二男で秩父重綱の養子となった行重の二男行村、三男行時がこの片山の地に土着して片山二郎、片山与二郎を称したのが始まりで、和田合戦や承久の乱で幕府側につき手柄をあげたため、丹波国和知荘地頭職を給恩されて、当初はまだ片山に本拠地を残していたものの、元寇を期に移住し、その地で時代の波に揉まれながらも存続し、現在も同地には片山姓が多数存在するそうです(※新座には片山姓はほとんどいないらしいです)。

法臺寺は片山氏館跡であるかどうかを置いておいても、徳川家康より13石5斗の御朱印状を拝領し、増上寺の旧本堂も本堂として譲り受けた、仏像など多くの文化財を持つ立派な寺院です。入口左手にある十一基の時宗板碑も鎌倉から室町時代に造られたもので県指定の文化財になっています。さらに裏には「片山富士(法臺寺富士)」と言われる富士塚があり、これも新座市指定文化財になっています。この富士塚は新座七富士の1つで、この周辺に多い丸吉講の富士塚のうち一番最初に築かれたものだなのだそうですが、立入禁止になっていました。後で調べたら社務所を通して500円の拝観料を払えば登れたみたいだったのですが、今回は足も痛くてコケる可能性もあるし、良いこととします。
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で、この富士塚なんですが、あくまで外から見た感じなのですが、土塁を整形したものの可能性があると思います。法臺寺は台地が削られた物か黒目川の土砂が滞積した自然堤防かイマイチ良くわかりませんが、周囲の低地より一段高い細長い微高地の先端にあって、本堂も富士塚もその上にあるのですが、その間が不自然に掘り下げられて堀のようになっていて、本道から富士塚へ行くには橋を渡らないと行けないようになっているのです。富士塚だけ造るならこの窪みは必要ないはずなのですが、土塁と堀のセットと考えるならば納得が行きます。あと寺の反対側にも不自然に一段高くなった墓地があり、ここも土塁を堀崩して平坦地を造ったと考えれば納得が行きます。

法臺寺から表の道に出たら、「富士力食堂」という富士山形の看板を掲げた食堂がありました。片山富士と関係がありのでしょうか。

それから、さっきからうるさくあちこちに幟が立てられている「新座観音」というのにも行ってみました。それほど大きな観音様ではなかったのですが、法臺寺の裏の「神護院」という寺がやっているみたいでした。

新座観音からまたまた黒目川を渡ると、河岸段丘上に森のような物が見えます。あの辺りが堀ノ内1丁目にあったとされる「片山氏館跡(片山広忠館跡)」の候補地その2です。遺構は残っていないそうなのですが、法臺寺と違って河岸段丘の上の高台にあるので、城としての防御力は高そうです。でも戦国時代の城ではないので防御力より居住性重視だったのかもしれません。

その河岸段丘を登ると、上は広大な畑の中に住宅地が点在するような場所で、「新座片山農産物直売所」というJAあさか野の直売所がありました。堀ノ内1丁目の片山氏館はここをランドマークにすると良いかもしれません。
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直売所から西へ進んだ小高い場所が「殿山」50mです。「殿山運動場」という野球のグランドがありました。山と言うほどの起伏はないのですが、山頂付近には武蔵野の平地林が残されており、この辺りの開拓者たちが森林資源を得るために造った林を山と読んでいた可能性が高いと思います。その殿山運動場前に「嵯峨山遺跡」という旧石器時代・縄文時代の遺跡の説明書きが立てられています。ここには縄文中期の大規模集落があったということで、埼玉県選定重要遺跡になっています。
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殿山の林は「堀ノ内2丁目いこいの森」「堀ノ内3丁目いこいの森」「殿山堀ノ内いこいの森」などに分けられていて、それぞれ中に散策路が設けられています。
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殿山から西に進むと今度は「西堀」という地名の場所があります。川沿いの低地ではないので堀という地名はおかしいのですが、堀ノ内の西側の堀がかつては存在していたのかもしれません。ただ近くに野火止用水があるので、これを堀と呼んだのかもしれません。

この西堀にあるのが「西堀氷川神社」です。武蔵一宮の氷川神社を勧請して創建したのはこの近辺の他の氷川神社と一緒なのですが、ここには畠山重忠がこの地を領した時、「真鳥山城」を築き、家臣の真鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたという伝承が残っています。真鳥山城(真鳥日向守城)は一般に南与野駅近くのさいたま市桜区西堀の日向不動堂あたりにあったと言われているのですが、武蔵嵐山の菅谷館を本拠地とする畠山重忠が鎌倉に向かう時に親族の多い川越経由の道を良く使っていたとしたら、新座市の西堀に居館を持っていたとしても不思議はないと思います。荒川越えるのはさすがに面倒ですしね。
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西堀氷川神社を出るとすぐに埼玉県新座市から東京都東久留米市に入ります。その境目の東京側にあるのが、東京都の温泉人気ランキングで1位を爆走中の「スパジアムジャポン」に寄って行きます。今日はここで汗を流していきます。やっと着いた!今日はここまで足が痛かった!

「スパジアムジャポン」はショッピングモールの中にある広くてゴージャスな雰囲気の日帰り温泉施設で、平日750円、土日850円、泉質はpH7.6の透明なナトリウム-塩化物・炭酸水素泉です。単なる塩泉ではなく、炭酸が溶け込んでいるとのことなのですが、別に高濃度炭酸泉があるし、温泉自体が井戸水の浴槽と体感的にあまり変わらない感じなので、温泉を楽しみに行くところというより、雰囲気を楽しみに行く場所と考えた方が良いかもしれません。あとここの露天風呂は4階にあって一見眺めが良さそうなんですが、前がショッピングモールなのでほぼ空しか見えないのが残念なところです。でもフードコートのようになっていてメニューのやたらに多い食堂からは、あたりを一望することが出来ます。
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スパジアムジャポンから東久留米駅までは無料送迎バスもあるのですが、途中にある「浄牧院」という曹洞宗の寺に寄って行きたいので歩きます。ここは八王子城の北条氏照の正室の自害の地という伝承を持つ寺す。氏照の正室は“比佐”とも“豊”とも言われ名前すらはっきりしない方なのですが、とにかくかの大石定久の娘(※氏照は滝山城を譲り受ける際に定久の養子になっている)で、亡くなった場所も、八王子城落城の時に自害したとか、生き延びて月夜峯で笛を吹きながら犠牲者の菩提を弔いながら暮らしたとか、イマイチ良くわからないのですが、浄牧院に伝わる伝承によると、滝の城(※滝山城ではなく新座駅近くにある滝の城)に住んでいた氏照の正室は、滝の城が落城した時にこの浄牧寺に逃れてきて、そのままここで亡くなったということです。寺の裏の竹林の中に「北条氏照公内室終焉自害之蹟」という小祠があるらしいのですが、入れないようになっているそうです。でも外からそれらしき物が見えたので一応写真だけは撮って来ました!
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いずれにせよ「浄牧院」が北条氏ゆかりの寺であることは間違いなく、創建も八王寺城主の北条安祝であるとか、いやその前に元となる寺を大石氏が創建していたとか言われています。ただこの寺は元々は東久留米市の前沢や神山(※神山氷川神社の辺り)にあったらしく、この地に移ったのは江戸時代の旗本の神谷家と鈴木家の菩提寺になって再興されてからかもしれません。その関係で墓所には両家の宝篋印塔が建てられています。

そして東久留米駅に向かうのですが、もう1つ駅前の商店街の中に「武蔵野稲荷神社」という小さなお稲荷さんがあるので寄っていきます。ここはたぶん駅近所にあった農家の屋敷の屋敷神だったのでしょうが、西武鉄道の前身となる武蔵野鉄道に東久留米駅がなかったため、当時の久留米村の村会議員で駅設置に尽力した神藤庄太郎(1875~1948)の銅像が境内にひっそりと建てられています。駅が出来ても長らくあたり一面は畑のままで乗降客も数えるほどで東久留米は全然発展しなかったらしいのですが、それでも今の東久留米があるのはこの方のお陰だろうと思うので、取り上げてみました。
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そして今日の昼飯です。東久留米駅北口近くに「たんたんめんKAI」という気になる佇まいの店があったので入ってみました。担々麺というのは店によって全然違う食べ物なんですが、こかのは見た目はほぼ川崎のソウルフードのニュータンタンメンです。あまりにマンマなのでチェーン店かと思ったぐらいなのですが、ここのは麺が違いました。ここの麺は縮れぎみのやや太麺で、食感も多少武蔵野うどんのテイストを入れたのか、もっちりブキブキしています。川崎のニュータンタンメンを食べなれていると若干違和感がありますが、ニュータンタンメンの武蔵野バージョンということで、これはこれで美味しいかな~と思いました。
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「ぷらり あさかさんぽ」_5ページ(黒目川) [PDFファイル/3.52MB]
https://www.city.asaka.lg.jp/uploaded/attachment/52899.pdf


川越街道膝折宿
http://home.e02.itscom.net/tabi/kawagoe/4hizaori.html


城郭図鑑/片山右馬允広忠館
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/011saitama/122katayama/katayama.html


天然温泉 岩盤浴 スパジアムジャポン|スパジャポ
https://www.spajapo.com/


<地図>

朝霞台~新座~東久留米

(2021/10/09)
学芸大学→東急東横線地下鉄副都心線直通和光市行→和光市→東武東上線→朝霞台

朝霞台駅6:42→黒目川7:06→泉蔵寺7:16→一乗院閻魔堂7:28→牛山家本陣跡(〒膝折局)7:35→旧脇本陣村田屋7:36→膝折不動尊7:41→子ノ神氷川神社7:56→新座市営墓地入口8:02→市場坂遺跡8:11→・キツネノカミソリの里8:16→蓮光寺8:33→片山氷川神社8:44→法臺寺(片山富士、片山広忠館跡その1)9:00→新座観音(神護院)9:12→新座片山農産物直売所(片山広忠館跡その2)9:25→殿山運動場(嵯峨山遺跡)9:32→堀ノ内いこいの森→殿山→西堀氷川神社10:50→スパジアムジャポン9:57~12:00→浄牧院12:23→武蔵野稲荷神社12:41→たんたんめんKAI12:43~13:03→東久留米駅13:04

合計3時間18分(温泉とラーメン除く)

東久留米→西武池袋線→練馬→地下鉄副都心線東急東横線直通元町・中華街行→学芸大学

10月9日(土)は、足のマメが潰れた場所がグチュグチュになってあまり歩けなくなってしまったので、朝霞台/東朝霞駅から黒目川沿いを東久留米までショートコースを作って歩いて来ました。この辺たいした物はないのですが、新座市唯一の城と言われる「片山城跡」があります。

東武東上線の朝霞台駅で電車を降りたら、南に下り、先日も行った「黒目川の桜並木」に出ます。駅から適当に進めば着くと思っていたら、道に迷いかけてしまった。早朝の黒目川はラーニングやウォーキングの人がたくさんいて、とても住民に愛されているといった感じです。ただ川底から堤防の上までの高さがたいしてなく、大雨が降ったら怖そうなので、あまり近くには住みたくないかも。

黒目川沿いをしばらく進むと「泉蔵寺」という渡来人が泉水に住み着いた際に立てられたとの憶測がある真言宗宗智山派の寺があります。和光市や新座市の新羅から来た渡来人が開拓したという話や、朝霞市の一乗院をつくったのは高麗郷から来た落人だったという話など、この近辺は本当に渡来人の話が多くあります。泉蔵寺は寺院としては正長2年(1429)と永正元年(1504)年の板碑が残されていることから、室町時代初期の創建で、古くは泉水の山の上にあったと伝えられており、泉水の泉と本尊である地蔵の蔵の字をとって泉蔵寺としたといわれています。

泉蔵寺からさらに南へ進むと「一乗院閻魔堂」があります。ここは一乗院とついていますが、現在の管理者が一乗院であるというだけで、元々は「持明院」という明治の廃仏毀釈で廃寺になった寺院のものだったようです。閻魔堂というのも正確ではなく、元は阿弥陀堂で持明院が零落して本尊もどれだかわからなくなった結果、そこにあった仏像を合祀したものらしいです。一乗院閻魔堂は小さな墓地の中にあるのですが、その入口に集められた古い石仏や石碑も持明院にあったものだと言われています。

一乗院閻魔堂の先の膝折一丁目交差点を左折すると旧川越街道「膝折宿」に入ります。少し行った右側にある「膝折郵便局」のあたりが「膝折宿本陣跡」で牛山家の屋敷があったそうです。ここには標識も何もありません。しかしその少し先に「膝折宿脇本陣跡」だった「村田屋」という古民家が保存されていて、その前に説明書き建てられています。この建物の屋号は村田屋となっていますが、「高麗家」の屋敷で、戦乱で高麗氏の城が陥落した際、膝折へ落ち延びて定住し、一乗院をつくった5名の家臣の子孫なのではないかと思います。

膝折の地名の由来は『敗走していた小栗判官が乗った愛馬・鬼鹿毛がついに力尽きて膝を折り息絶えたのがこの地』 であるという伝説が有名ですが、中山道の起点である日本橋から歩き続けると、この辺りで馬の足が折れてしまうことからついたという説もあり、こちらの方がしっくりくると思います。膝折宿は黒目川の河岸段丘の急斜面を下った場所にあり、武蔵野台地の水の乏しい中、湧水に恵まれたことから古くから市が立ち商人が集まる活気のある町だったそうです。昔は荷車を押して駄賃を稼ぐ人夫もいたらしく「稼ぎ坂」という地名も残っています。ちなみに朝霞市は最初、膝折村だったのですが、縁起が悪いということで町に変わる時に同地にあった東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁だった朝香宮鳩彦王にちなんで、朝霞町と名乗るようになったそうです。

坂道を登り切っり手前で脇道に入った所にある「膝折不動尊」は由緒不明なのですが、川越街道の旅の安全を願って古くから祀られてきたお不動様なのだと思います。

膝折不動尊の先で現在の川越街道である国道254号を渡ろうと思っていたら、横断歩道が無かったので、少し戻ったこうさてんでで渡り、さらに南に進みます。ここから先は河岸段丘上に「陸上自衛隊朝霞訓練場」や「新座市市営墓地」があるので、川沿いに緑が続くようになります。

その入口に「子ノ神氷川神社」があります。元々山の神として祀られていた子ノ神の神社に氷川神社を勧請した神社とのことだったのですが、とても立派な湧水の池があり、その下に滝行が出来るような滝も造られていたので、元は修験道の修行場の守護神だったような気がします。ここの別当も廃寺になった「持明院」だったそうで、明治に入って近隣の神社を合併して村社になっています。持明院はやはりそっち系の寺だったのでしょうか?

子ノ神氷川神社の少し先に新座市営墓地の裏口があるので、そこから墓地の脇を通る遊歩道のような道に入ります。この裏口はゲートが閉まり進入禁止の文字が書かれていますが、歩行者はゲートの横の隙間から入っていいことになっているらしいです。この墓地を造成するにあたり、3ヶ所から旧石器時代、縄文時代の遺構・遺物が発掘されており、「市場坂遺跡」の説明書きが送電線鉄塔の下にあります。また墓地の一番南西側斜面は「キツネノカミソリの里」というキツネノカミソリの群生地です。キツネノカミソリは埼玉の場合、もう少し田舎の方に行くとあちらこちらに咲いているのであまり珍しくはないのですが、ここは東京から近いので結構見に来る人がいるのかもしれません。

新座市営墓地を出てまた黒目川を渡り、反対側の河岸段丘上に登ると、「蓮光寺」という真言宗智山派の寺があります。ここ単体ではそれほど重要な寺では無いのですが、片山城の守護神だったという「片山氷川神社」の元別当寺であったようなので寄ってみました。昔は神社の近くにあったようなのですが、現在地に移転したそうです。南北朝時代の康永元年(1342)から康正元年(1455)にかけて建てられた板碑が境内に残されています。

そして蓮光寺から西へ進むと、関越高速の手前にあるのが「片山氷川神社」です。黒目川流域は、古くから鎌倉幕府の支配する土地(国衙領)で「片山郷」といわれており、その中でもこの辺りは片山郷の中心で、関越高速を挟んだ西側の堀ノ内1丁目付近には鎌倉御家人で片山郷の開発領主の片山氏が居館があったと言われています。片山氷川神社もおそらくその関連で祀られたものではないかと考えられています。境内には樹齢700年と言われる御神木の老杉根が今も残されています。また神社の由緒書きには「馬場氷川神社」とあるので、この辺りに馬場か、もっと古くは放牧場であった牧が存在した可能性もありますね。

片山氷川神社から関越高速をくぐって反対側に出て
黒目川を渡ると、「法臺寺」という元時宗で現在浄土宗の寺があって、そこが「片山氏館跡(片山広忠館跡その1)」です。なぜその1と言うかというと、片山神社の説明書きにある堀ノ内1丁目も候補地としてあるからです。法臺寺は『新編武蔵風土記稿』にも「古城跡。境内大門並木の北にあり、四間四方ほどの地なり何人の館跡なるを詳にせず、ただ古址といひ傳ふのみ、今は墓所となれり」という一文が載せられています。

片山氏は武蔵七党・児玉党の児玉経行の二男で秩父重綱の養子となった行重の二男行村、三男行時がこの片山の地に土着して片山二郎、片山与二郎を称したのが始まりで、和田合戦や承久の乱で幕府側につき手柄をあげたため、丹波国和知荘地頭職を給恩されて、当初はまだ片山に本拠地を残していたものの、元寇を期に移住し、その地で時代の波に揉まれながらも存続し、現在も同地には片山姓が多数存在するそうです(※新座には片山姓はほとんどいないらしいです)。

法臺寺は片山氏館跡であるかどうかを置いておいても、徳川家康より13石5斗の御朱印状を拝領し、増上寺の旧本堂も本堂として譲り受けた、仏像など多くの文化財を持つ立派な寺院です。入口左手にある十一基の時宗板碑も鎌倉から室町時代に造られたもので県指定の文化財になっています。さらに裏には「片山富士(法臺寺富士)」と言われる富士塚があり、これも新座市指定文化財になっています。この富士塚は新座七富士の1つで、この周辺に多い丸吉講の富士塚のうち一番最初に築かれたものだなのだそうですが、立入禁止になっていました。後で調べたら社務所を通して500円の拝観料を払えば登れたみたいだったのですが、今回は足も痛くてコケる可能性もあるし、良いこととします。

で、この富士塚なんですが、あくまで外から見た感じなのですが、土塁を整形したものの可能性があると思います。法臺寺は台地が削られた物か黒目川の土砂が滞積した自然堤防かイマイチ良くわかりませんが、周囲の低地より一段高い細長い微高地の先端にあって、本堂も富士塚もその上にあるのですが、その間が不自然に掘り下げられて堀のようになっていて、本道から富士塚へ行くには橋を渡らないと行けないようになっているのです。富士塚だけ造るならこの窪みは必要ないはずなのですが、土塁と堀のセットと考えるならば納得が行きます。あと寺の反対側にも不自然に一段高くなった墓地があり、ここも土塁を堀崩して平坦地を造ったと考えれば納得が行きます。

法臺寺から表の道に出たら、「富士力食堂」という富士山形の看板を掲げた食堂がありました。片山富士と関係がありのでしょうか。

それから、さっきからうるさくあちこちに幟が立てられている「新座観音」というのにも行ってみました。それほど大きな観音様ではなかったのですが、法臺寺の裏の「神護院」という寺がやっているみたいでした。

新座観音からまたまた黒目川を渡ると、河岸段丘上に森のような物が見えます。あの辺りが堀ノ内1丁目にあったとされる「片山氏館跡(片山広忠館跡)」の候補地その2です。遺構は残っていないそうなのですが、法臺寺と違って河岸段丘の上の高台にあるので、城としての防御力は高そうです。でも戦国時代の城ではないので防御力より居住性重視だったのかもしれません。

その河岸段丘を登ると、上は広大な畑の中に住宅地が点在するような場所で、「新座片山農産物直売所」というJAあさか野の直売所がありました。堀ノ内1丁目の片山氏館はここをランドマークにすると良いかもしれません。

直売所から西へ進んだ小高い場所が「殿山」50mです。「殿山運動場」という野球のグランドがありました。山と言うほどの起伏はないのですが、山頂付近には武蔵野の平地林が残されており、この辺りの開拓者たちが森林資源を得るために造った林を山と読んでいた可能性が高いと思います。その殿山運動場前に「嵯峨山遺跡」という旧石器時代・縄文時代の遺跡の説明書きが立てられています。ここには縄文中期の大規模集落があったということで、埼玉県選定重要遺跡になっています。

殿山の林は「堀ノ内2丁目いこいの森」「堀ノ内3丁目いこいの森」「殿山堀ノ内いこいの森」などに分けられていて、それぞれ中に散策路が設けられています。

殿山から西に進むと今度は「西堀」という地名の場所があります。川沿いの低地ではないので堀という地名はおかしいのですが、堀ノ内の西側の堀がかつては存在していたのかもしれません。ただ近くに野火止用水があるので、これを堀と呼んだのかもしれません。

この西堀にあるのが「西堀氷川神社」です。武蔵一宮の氷川神社を勧請して創建したのはこの近辺の他の氷川神社と一緒なのですが、ここには畠山重忠がこの地を領した時、「真鳥山城」を築き、家臣の真鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたという伝承が残っています。真鳥山城(真鳥日向守城)は一般に南与野駅近くのさいたま市桜区西堀の日向不動堂あたりにあったと言われているのですが、武蔵嵐山の菅谷館を本拠地とする畠山重忠が鎌倉に向かう時に親族の多い川越経由の道を良く使っていたとしたら、新座市の西堀に居館を持っていたとしても不思議はないと思います。荒川越えるのはさすがに面倒ですしね。

西堀氷川神社を出るとすぐに埼玉県新座市から東京都東久留米市に入ります。その境目の東京側にあるのが、東京都の温泉人気ランキングで1位を爆走中の「スパジアムジャポン」に寄って行きます。今日はここで汗を流していきます。やっと着いた!今日はここまで足が痛かった!

「スパジアムジャポン」はショッピングモールの中にある広くてゴージャスな雰囲気の日帰り温泉施設で、平日750円、土日850円、泉質はpH7.6の透明なナトリウム-塩化物・炭酸水素泉です。単なる塩泉ではなく、炭酸が溶け込んでいるとのことなのですが、別に高濃度炭酸泉があるし、温泉自体が井戸水の浴槽と体感的にあまり変わらない感じなので、温泉を楽しみに行くところというより、雰囲気を楽しみに行く場所と考えた方が良いかもしれません。あとここの露天風呂は4階にあって一見眺めが良さそうなんですが、前がショッピングモールなのでほぼ空しか見えないのが残念なところです。でもフードコートのようになっていてメニューのやたらに多い食堂からは、あたりを一望することが出来ます。

スパジアムジャポンから東久留米駅までは無料送迎バスもあるのですが、途中にある「浄牧院」という曹洞宗の寺に寄って行きたいので歩きます。ここは八王子城の北条氏照の正室の自害の地という伝承を持つ寺す。氏照の正室は“比佐”とも“豊”とも言われ名前すらはっきりしない方なのですが、とにかくかの大石定久の娘(※氏照は滝山城を譲り受ける際に定久の養子になっている)で、亡くなった場所も、八王子城落城の時に自害したとか、生き延びて月夜峯で笛を吹きながら犠牲者の菩提を弔いながら暮らしたとか、イマイチ良くわからないのですが、浄牧院に伝わる伝承によると、滝の城(※滝山城ではなく新座駅近くにある滝の城)に住んでいた氏照の正室は、滝の城が落城した時にこの浄牧寺に逃れてきて、そのままここで亡くなったということです。寺の裏の竹林の中に「北条氏照公内室終焉自害之蹟」という小祠があるらしいのですが、入れないようになっているそうです。でも外からそれらしき物が見えたので一応写真だけは撮って来ました!

いずれにせよ「浄牧院」が北条氏ゆかりの寺であることは間違いなく、創建も八王寺城主の北条安祝であるとか、いやその前に元となる寺を大石氏が創建していたとか言われています。ただこの寺は元々は東久留米市の前沢や神山(※神山氷川神社の辺り)にあったらしく、この地に移ったのは江戸時代の旗本の神谷家と鈴木家の菩提寺になって再興されてからかもしれません。その関係で墓所には両家の宝篋印塔が建てられています。

そして東久留米駅に向かうのですが、もう1つ駅前の商店街の中に「武蔵野稲荷神社」という小さなお稲荷さんがあるので寄っていきます。ここはたぶん駅近所にあった農家の屋敷の屋敷神だったのでしょうが、西武鉄道の前身となる武蔵野鉄道に東久留米駅がなかったため、当時の久留米村の村会議員で駅設置に尽力した神藤庄太郎(1875~1948)の銅像が境内にひっそりと建てられています。駅が出来ても長らくあたり一面は畑のままで乗降客も数えるほどで東久留米は全然発展しなかったらしいのですが、それでも今の東久留米があるのはこの方のお陰だろうと思うので、取り上げてみました。

そして今日の昼飯です。東久留米駅北口近くに「たんたんめんKAI」という気になる佇まいの店があったので入ってみました。担々麺というのは店によって全然違う食べ物なんですが、こかのは見た目はほぼ川崎のソウルフードのニュータンタンメンです。あまりにマンマなのでチェーン店かと思ったぐらいなのですが、ここのは麺が違いました。ここの麺は縮れぎみのやや太麺で、食感も多少武蔵野うどんのテイストを入れたのか、もっちりブキブキしています。川崎のニュータンタンメンを食べなれていると若干違和感がありますが、ニュータンタンメンの武蔵野バージョンということで、これはこれで美味しいかな~と思いました。

「ぷらり あさかさんぽ」_5ページ(黒目川) [PDFファイル/3.52MB]
https://www.city.asaka.lg.jp/uploaded/attachment/52899.pdf

川越街道膝折宿
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城郭図鑑/片山右馬允広忠館
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天然温泉 岩盤浴 スパジアムジャポン|スパジャポ
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高坂城跡~小代氏館跡~勝呂氏館跡~大堀山城跡~大穴城跡など

(2021/10/02)
目黒→山手線→池袋→東武東上線→高坂

高坂駅6:12→高坂城跡(高斉寺)6:21~28→高坂弐番町遺跡(さくら坂公園)6:31→高坂6号墳6:38→東光院6:40→高坂神社(高坂9号墳)6:46→高坂10・11号墳6:52→大黒部愛宕神社6:56→高坂12号墳(消失)6:58→小代氏館跡(青蓮寺)7:09→正代御霊神社7:12→浅海氏屋敷7:43→坂戸市立歴史民俗資料館8:03→勝呂廃寺跡8:05→勝呂氏館跡1(宗福寺)8:12→勝呂神社8:21~30→塚越城跡(西光寺)8:36~9:06→大宮住吉神社9:12→塚越神社9:23→勝呂氏館跡2(大智寺)9:43→竹ノ内館跡10:11→在家館跡10:19→広谷北城跡10:23→大堀山城跡10:37→広谷宮前館跡10:43→往還上館跡10:53→大穴城跡11:05→宮廻城跡11:30→若葉駅11:54

合計5時間42分

若葉→東武東上線→坂戸→坂戸天然温泉 ふるさとの湯→横浜家系ラーメン坂戸家→坂戸駅→東武東上線快速→和光市→地下鉄副都心線元町・中華街行→渋谷→東急東横線→学芸大学

10月2日(土)は、城跡や古墳があり過ぎてまとまらなかった坂戸の東側がようやくまとまったので行ってきました。

スタートは東武東上線の高坂駅です。まず都幾川の河岸段丘上にある「高坂城(館)跡」へむかいます。ここは「高坂刑部太輔」の居館跡です。高坂氏は秩父平氏の一族である江戸氏の流れをくむ豪族で、武蔵平一揆の乱で河越氏とともに足利氏満に背き敗れ、遠方に領地替えになったそうです。その後、戦国時代に松山城の戦いで北条氏政がここに陣を敷き、現在残る土塁や空堀はこの時のもののようです。と書きたいところだったのですが、最近修復したのが見え見えで、東松山市は観光地化するつもりなんでしょうか?
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現在、館跡には江戸時代に創建された「高済寺」という曹洞宗の寺が建っていて、土塁の上にには今川の重臣で後に徳川に仕え、安土桃山時代に高坂の領主だった加々爪隼人・同民部少輔の墓も残されています。

高済寺から出るとすぐ先にに親水歩道のある「さくら坂公園」があります。その中に「高坂弐番町遺跡」という古墳時代後期の円墳が残っています。ここでも中世の堀の跡が発見されており、高坂氏の居館はここにあったのではないかという説もあるそうです。
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親水歩道を南に進むと「東光院」という寺の前に「高坂6号墳」があります。ちなみには東光院、比企西国三十三所観音霊場になっている以外は、特に何も無い元禄時代創建の天台宗の寺です。

東光院で川から上がって住宅街の縁を進むと「高坂神社」があります。坂上田村麻呂が当地を通行の際、日本武尊が東夷征伐の折にここに陣地を置いたという故事に因んで社を建立し、高坂氏も祈願所としていたという神社です。神社の横に「剣前古墳(高坂9号墳)」という古墳もあります。源頼朝が奥州征討の折には「猿田彦の面」を奉納したという伝承も残っています。
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高坂神社から南に進むと道の両側に「高坂10号墳」「高坂11号墳」があります。高坂11号墳右に曲がると「大黒部愛宕神社」という神社があり、ここにも愛宕山という墳丘が存在していたようなのですが、残念ながら道路拡張掘り崩されてしまったそうです。土中から金環が出たと伝えられています。

大黒部愛宕神社の斜め前に「高坂12号墳」があるはずだったのですが、掘り崩されて跡形もなくなっていました。

大黒部愛宕神社から今度は東に進むと「青蓮寺」という天台宗の寺があります。ここは「小代氏館跡」があったと言われており、弘安4年(1281)の板石塔婆が残されています。板石塔婆には、小代氏四代目重俊の仁徳を慕って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合わせてこの板碑を建立したといったような事が刻まれているそうです。小代氏は武蔵七党・児玉党の一族で、浅羽氏や越生氏の父でもある入西資行の次男遠弘が、小代(正代)郷に住して小代を名乗ったことに始まります。子孫は鎌倉幕府から肥後国野原庄(熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられて、当初は地頭代に所領の管理を任せていたのですが、幕府から蒙古襲来に備えるため肥後国行を命じられ、一族で移り住み、その後長らくその地で勢力を持っていたそうです。
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青蓮寺のすぐ近所に、たぶん元は境内にあったのでしょうが、「正代御霊神社」という小代氏が創建したのではないかと言われている神社もあります。ここは御霊神社としては珍しく鎌倉権五郎景政ではなく、源悪源太義平を祀っています。頼朝の兄である悪源平は近隣の大蔵合戦で活躍したので、比企郡周辺では人気があったのかもしれません。青蓮寺と正代御霊神社はが眼段丘上にあり前が田んぼなのでとても眺めが良いです。富士山が見えます
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そしてしばらく広大な田んぼの中を歩き、島田橋という小さな木造の橋で越辺川を渡って東松山市から坂戸市に入ります。
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渡ってすぐ「浅海氏屋敷」という武田の家臣の末裔の屋敷があります。ここには子孫の方が今も住んでいます。

さらに田んぼの中を進むと、坂戸総合運動場の先に小学校の古い校舎を再利用した感じの「坂戸市立歴史民俗資料館」があり、その南東側の旧勝呂公民館分館の敷地内に「勝呂廃寺跡」があります。ここは飛鳥時代の終わり頃(680年頃)建てられた埼玉県内最古といわれる寺院の跡で、県の史跡に指定されているとのこと。五重塔の部品も発見されたそうです。
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その南西にある曹洞宗の「宗福寺」が「勝呂(すぐろ)氏館跡」です。現在は幼稚園を経営しているようで、運動会の真っ只中でした。勝呂氏は武蔵七党・村山党の流れを汲む一族で、勝呂の地に代々住み、吾妻鏡に恒高とその子頼高は承久の乱で討死したという記述が残されています。その子孫である勝呂豊前守は小田原北条氏の家臣になり、その時代の屋敷がここにあったようです。北条氏滅亡後は千葉の上総久留里藩里見家に仕えたとのこと。遺構は残っていませんが、宗福寺の境内に板石塔婆と説明書きがあります。
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宗福寺の次は「勝呂神社」に向かいます。ここは勝呂氏の氏神で「勝呂神社古墳」の上に建てられています。崇神天皇の時代に四道将軍の建渟河別命はここを本拠地に東夷を平定し、その後都へ戻るも、再びやって来てこの地に定住し村の発展に尽くしたので、亡くなった後、村人たちは広大な陵墓を築き、東北鎮護の神として祀ったのが神社の始まりだとのことです。その後、加賀の白山比神社の分霊を勧請して、勝呂白山権現と呼ばれていたそうです。明治維新後に村社となり、名前を今の勝呂神社に改めたとのこと。勝呂神社古墳は直系50m高さ42mの巨大な古墳だったそうで、神社の境内に置かれている勝運霊石や緑泥片岩の板3枚は石室のものだったと言われています。ただ近所にある胴山古墳の石も混じっているとのこと。
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勝呂神社から小さな川を1つ渡ったところに「西光寺」という曹洞宗の寺があり、ここの裏の林の中に「塚越館(城)跡(西光寺城)」があったと言われています。詳細不明の城跡なのですが、小田原北条氏の支配期に太田道灌の曾孫の太田資正の配下であった比企氏の家臣「小島氏の居館跡」なのではないかと言われてます。林の中には墓の奥から入ることが出来て、土塁や空堀を確認できます。また西光寺本堂裏には勝氏ゆかりの貞治5年(1366)の宝篋印塔があり「勝次郎左衛門入道頼阿」と刻まれているそうなのですが、これは発見できませんでした。代わりに小島家の墓にあった一番古そうな宝篋印塔でも。
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西光寺のすぐ前にあるのがこの辺りでは一番大きな神社である「大宮住吉神社」です。近所のおじさんが安倍元総理も参拝に来たと教えてくれました。ここは天徳3年(959)に山田長慶という人物が、水害や干害に苦しむ村人を救うため、下関の住吉神社(※大阪の住吉大社ではない)の分霊を奉遷したのが始まりとのことなので、下関繋がりで安倍元総理が来たのでしょうか?その後、源義家が奥州征討の際此地に訪れた際に、越辺川と荒川が増水して渡れずしばらく滞留し、逆徒征討祈願とともに「干満祭」と称して河川減水祈願を行ったという伝承も残っていて、その時に、義家が腰掛けた塚がここの地名である塚越の由来だそうです。そのこともあってか、源頼朝の命により北武蔵12郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社に選ばれ、室町時代中期には足利持氏によって社殿が再建されています。
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大宮住吉神社から少し南西に行ったところにある「塚越神社(義家塚)」はその義家が腰掛けた塚に造られた神社です。大宮住吉神社に合祀されてはいるのですが、わずかながら塚が残っているので、その上に小さな社が建てられています。この塚は当然ながら古墳で横穴式石室が見つかっているそうです。

そしてさらに西へひたすら進むと「大智寺」という山門までは普通なんですが、本堂がキリスト教の礼拝堂のような真言宗智山派の寺があります。この寺のある場所に宗福寺に移る以前の「初期の勝呂氏の居館」があったと言われています。『新編武蔵国風土記稿』にも「思ふに此寺地は勝呂氏の祖先居住の社にてはなきか」と記されています。大智寺は一時期衰退し、徳川時代に長崎奉行だった黒川丹波守正直が再興したため、墓所も残されています。
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大智寺を出て富士見工業団地の横を進むと下広谷の城跡が7つまとまってある地区に着きます。大谷川対岸の大穴城跡を含めると8つです。

まず工業団地の片隅に「竹ノ内館跡」があります。ありますといっても工場にになってしまったので、遺構も何も残っていません。標識もありませんし、誰の館かもわかっていません。

工業団地を抜け、圏央道をくぐると、住宅に挟まれた林の中に「在家館跡」があります。ここも誰の館かわかっていおらず、堀の跡が残っているとのことだったのですが、はっきりとした物は発見できませんでした。

再び圏央道をくぐると「広谷北城跡」があります。ここも林の中に堀と土塁が残っているとのことだったのですが、道路よりも一段低い湿地帯になっていて、さすがに中に入ることは出来ず、確認は出来ませんでした。ここも居住者不明の城です。

そして「大堀山城(館)跡」です。ここは下広谷に残る委細不明の7つの遺構群の中で唯一案内板が建てられている城跡で、従来、河越氏館(南3km)に近いため河越氏関連の城とされてきましたが、15~16世紀の陶器や古銭等が発見されたため、すぐ西側に川越と鉢形や五十子を結ぶ旧街道が通っていることもあり、現在は享徳の乱から長享の乱にかけて川越城に拠点を置いていた扇谷上杉氏の城であったと考えられているそうです。でもあるはずだった散策路もなく、蜘蛛の巣をかきわけて藪の中に入るのも限度があるので、手前にある土塁と堀ぐらいしか確認は出来ませんでした。
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残り4つです。次は「広谷宮前館跡」です。ここは大堀山城跡の東側にあるはずだったのですが、墓地と産廃業者の残土置場になっていて、中に入って確認はすることが出来ませんでした。唯一確認出来たのは墓地と産廃置場を分ける残土を高く積み上げた土塁のような物だけです。たぶんうるさいとか汚いとか言われたんでしょうね。

また先程の旧街道に戻ると今度は「往還上館跡」があります。ここも民家と畑のこ間に残された小さな林なです。外から堀の跡のような物を確認することが出来ますが、農業用の水路の跡だった可能性が高く、城の遺稿ではないと思います。在家館跡とここは規模も小さく大堀山城の近所に独立してあるので家臣の居館であった可能性が大きい気がします。

そして大堀山城に敵対するとしたらうってつけの位置にあるのが大谷川を渡った対岸にある「大穴城跡」です。ただ江戸時代に直参旗本の本多久蔵秀玄の陣屋があったということしかわかっておらず、それ以前にも城があったと思われるのですが残念ながら記録が残っていません。現在は「大穴城跡広場」という公園になっていて、公園内には何もないのですが、公園の隣に土塁が残っています。ただ川が近いので氾濫防止のための堤の跡である可能性もあります。
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そして最後、西側の少し離れた場所にあるのが「宮廻城跡(広谷南城跡)」です。ここは埼玉県により広谷南城の発掘調査が行われ、1400年代に造られた城だということが判明しています。1400年代というと上杉禅秀の乱から永亨の乱・享徳の乱を経て長享の乱辺りまでの埼玉中心に関東一円でドンパチやっていた時代で、砦のような簡易的な城もたくさん造られたので、その1つではないかと考えられています。ここは南側に農家が数件続く高速道路沿いの屋敷森で、南側から行くと農家の庭や畑で入れないのですが、北側の高速道路沿いの道から中を確認することが出来ます。今日は空振りが多かったのでここも何もないだろうと思っていたら、意外にもしっかりとした土塁と堀の跡を確認することが出来ました。この辺り圏央道や工業団地が出来て、元の地形がわかりにくくなっているのですが、基本的に大谷川に対してゆるやかな微高地になっているので、そこに土塁を足して防御としたのだと思います。

ここからさらに河越城まで行こうと当初は思っていたのですが、距離があるし、ここまででもてんこ盛り過ぎるので、今日は「若葉駅」まで行って終了とします。

でも若葉駅は坂戸駅までひと駅なので、坂戸でこの前行った「坂戸天然温泉 ふるさとの湯」で汗を流して帰ります。ここは前も書きましたが平日750円、土日850円の「薄緑色」のpH8.5の弱アルカリ性・低調性のナトリウム・塩化物温泉で、露天風呂から高麗川の眺めが良いなかなか気分爽快な温泉です。坂戸駅から早足で15分、ゆっくり歩いても20分で着きます。帰りは無料送迎バスも利用出来ます。
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坂戸駅は乗換駅のわりにラーメン屋が貧弱な駅なのですが、この前来た時に発見しておいた「横浜家系ラーメン坂戸家」に今日は最後に行ってみます。ここはごく普通の家系のラーメン屋なのですが、ラーメン注文するとライス無料なので、普通盛りでお腹がいっぱいになる学生向けの店です。実際、15時という時間的なこともあるのでしょうが客のほとんどが近所の大学生でした。
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城跡ほっつき歩きプラン 東松山市
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/plan-saitama/plan-saitama-higasimatuyamasi.html


城跡ほっつき歩きプラン 坂戸市
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/plan-saitama/plan-saitama-sakadosi.html


坂戸市観光ルートガイド
https://www.city.sakado.lg.jp/soshiki/25/407.html


坂戸 天然温泉ふるさとの湯
http://www.furusatonoyu.com/


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